光圓寺概史とその時代背景

十九世耀朗記

光圓寺は、佛護寺十二坊の一つで、往古から川の内衆であって、安藝郡牛田村風呂の谷に所在し、宗旨は眞言宗であったが「願了」の代に、京都本願寺蓮如上人の弟子となり文明年間(室町時代一四七〇年ごろ)浄土真宗に改宗し、初めは本願寺と号したが、本願寺派になった後東林坊と改めたと言われる。

願了より前は記録がなく、同僧を初代とし当山の創建とした。四世「淨順」まで牛田に在ったが、淨順の時、戦功によって、毛利殿より明星院村大歳原に寺地を賜わった。大歳原尾長山の麓であったので山号を長尾山と呼んだ。大歳原は一説には、天満宮太宰府左遷の時このところに御腰をかけられたゆかりで後に太宰原と名付けたと伝えられる。五世「願通」の時其地を拝領し、一宇を建立し、軍功によって毛利殿の御判物を賜わった。

その後、福島候の時、慶長十四年(一六〇九)今の寺地を拝領し移転、後に東林坊をあらためて光圓寺と号した。

藩主が浅野候に代わり江戸幕藩体制に組み込まれ維新を迎えた。明治に入り十七世朗善は現御本尊阿弥陀如来立像をお迎えして本堂の改築を発願し、明治二十二年ごろ旧本堂を江田島鷲部説教所に移築した。

この本堂は旧江田島町文化財として現存している。

昭和二十年原爆の被災により、一切の堂宇を焼失した。十八世朗映代、昭和四十四年現在の本堂を再建、二十世通暁継職に当たって門徒各位の懇念によって平成十八年修復した。

世代

初代 願了   二世 教順    三世 善休

四世 浄順   五世 願通    六世 願宗

七世 宗雪   八世 空惠    九世 惠照

十世 祖仙   十一世 英覺   十二世 禮懐

十三世 大龍  十四世 宥善      十五世 湛善

十六世 泥洹  十七世 朗善   十八世 朗映

十九世 耀朗     二十世 通暁(現住職)

歴史上の背景

光圓寺を語る上で広島の歴史的背景にふれる必要があろう。

安芸の国は古事記、日本書紀いずれにも徴証が無く旧事本紀に「阿岐国造」の文字を見る。旧事本紀は聖徳太子撰の序があるが平安時代の書物であることは明らかでその価値には問題が多々あるが阿岐国造の存在は疑いない。広島の歴史を詳述することは多行を要するので、ここでは佛護寺の背景にある武田氏、東林坊を重用した毛利氏の動向を中心に要点を概説する。

荘園と守護地頭

大化の改新、その後に展開する律令制度は、氏族の私地私人を否定するものであったが、実態において旧氏族は新官僚となり、国造は郡司となって勢力を保ち、官位の高いものは貴族となって世襲制を持つ要因が含まれ、このころから荘園の発達が著しくなって来つつあった。

広島市域においても、すでに奈良末期牛田荘が成立、奈良西大寺領の荘園となっている。

荘園では年貢を領主のもとに送るため、海岸に倉敷(倉庫)を設けた。海辺に臨まない荘園は川の水路を利用して小舟で倉敷に運び大船に積み替えて輸送した。

たとえば山縣の志路原荘は現在の祇園山本の地、壬生荘は大河浦などに倉敷を設けた。この輸送にも川の内衆などの海賊衆が警護を務めたとされる。

平安時代に入り平清盛が久安二年(一一四六)安芸守に任ぜられ、安芸の大社である厳島神社を平氏一門の氏神として崇敬しあらゆる保護を加えた。

したがってこの間安芸の国において厳島神社の荘園は拡大しつ丶あった。

やがて平氏が壇ノ浦の戦いで敗れ滅亡するに至って、源氏の世となり頼朝の御家人が国々に守護、各地に地頭として置かれるようになり、安芸守護には宗孝親が任ぜられ、壬生荘では凡氏が没落、山縣氏が、沼田荘では沼田氏が没落、小早川氏が地頭となった。

武田氏、毛利氏と安芸の國

承久三年(一二二一)朝廷では、後鳥羽上皇を中心として承久の乱を起こしたが、たちまちに北条氏の幕府に敗北、所領を召し上げられた。安芸国衙の有力な在庁官人葉山介の一族も京方となって合戦に及び所領を没収された。このとき広島地域の豪族いずれも京方に味方し没落した。

その結果、京進行軍の有力武将武田信光が安芸守護に任命され、関東御家人が、多数国衙や地頭に補せられた。

たとえば、相模の国毛利荘の毛利氏が吉田荘、駿河の国吉川邑の吉川氏が大朝荘と地頭職を獲得したのも承久の変の結果である。

ここに武田氏、毛利氏がはじめて安芸の国に登場するのである。

武田氏は新羅三郎義光の子孫と伝えられる甲斐源氏の嫡流として甲斐の国守護でありながら安芸の国守護を兼ねるもので本拠を移すことができなかったが、下って鎌倉時代末期武田信宗のとき大田川(当時は佐東川と呼ばれたらしい)西岸の武田山に銀山城を築いた。

その子の代に兄信成が甲斐守護、弟氏信は安芸守護と分かれた。氏信の子孫は安芸守護として銀山城に拠っていたが永享のころ信栄が若狭守護を兼ね、その後若狭守護を分出した。

大内氏と芸南地域

室町時代に入り芸南地域は大内氏の東漸、これに対する武田氏、厳島神主家、及びその他の豪族の関係として展開される。

大内氏は周防吉敷郡大内村に在し、平安時代末期から国府の在庁官人として台頭し、周防権介の職名を世襲して卓越した地位を獲得し、その実力は守護をしのぐものがあった。

大内弘世の代に至って防長両国守護に任ぜられ、山口に居館を移して京都の文化を採り入れ私貿易の利をあげて富強を誇った。さらに石見守護職も手に入れ豊前、安芸にも野心を示した。

その後豊前守護職を得、安芸の国に侵略して広島湾頭府中の国衙を押領し芸北、西条盆地に地盤を築いた。

大内氏と武田氏の確執

厳島神主家、毛利氏や内藤氏がこれに結んだが武田氏及び傘下の大田川流域の豪族は、大内氏になびかず対抗関係にあった。この頃太田川デルタは陸地化が進み、応永年代(一三九〇頃)には厳島神領として発展しつつあった。

銀山城の武田氏、廿日市桜尾城の厳島神主家は、本来の職分をこえて近在の地頭名主層を被官化し、封建大名としての領国の形成を目指していた。

武田氏は三入の熊谷氏、八木の香川氏、府中の白井氏等、太田川流域の諸豪族を家臣化した。

また、川の内衆と呼ばれた武田氏旗下の水軍を構成したものには、山縣・福島・福井・飯田・熊野・世良の諸氏があった。

この頃厳島神主家は大内氏の権力を背景に小早川一族の所領造果保(造賀)を侵略、さらに己斐と佐西郡の国衙領を押領する等勢力を広めた。

一方武田氏は幕僚細川氏を後ろ盾とした。永禄元年(一四五七)厳島神主親実は武田氏の南進を阻止するため、大内教弘に援助を求め、銀山城を攻めた。 特に支城己斐城の攻防は熾烈を極め、ついに同年五月、武田方守将戸坂信成が討死落城した。その後も大内氏と武田勢の戦いは断続し、そのまま応仁の乱へと持ち込まれた。応仁の乱の間諸将在京の留守中安芸においても騒乱が続発した。

応仁の乱後武田氏の被官にも叛く者が続出し武田氏自身も結局大内氏に従属するに至った。

京に於いて、大内氏は政弘の子義興が管領代として幕府に実権を握り権勢を極めた。

このとき京にあった厳島神社神主興親は病死して正統が途絶え、佐西郡では一族の友田・小方氏が後嗣を争った。

これを鎮めるため帰国させられた武田元繁は、この機会に勢力を張ろうとし大内氏に叛いたので義興は、毛利興元に武田氏の背後をおびやかさせた。

元繁は永正十四年千代田町の有田城近くで毛利元就と戦って敗死し、武田氏はますます衰えた。

尼子氏の台頭と大内氏の興亡

このころ尼子氏は出雲の国を統一し、勢いを伸ばしつつあった。尼子氏は近江の北半国守護の佐々木京極氏の分家で、京極氏が南北朝以来、功によって出雲守護を足利氏から与えられ、尼子氏はその守護代であったが、尼子経久が主家を放逐して富田城にあり、永正末年西条に南下、大内氏の鏡山城を手中にした。

銀山城主武田光和はじめ、芸備の諸豪族も多くの者がこれになびき、広島市域も一時尼子氏の勢力範囲となった。

大永四年(一五二四)七月大内義興は、桜尾城と銀山城を囲み、桜尾城は開城したが銀山城はなかなか落城しなかった。

再び同七年大内軍は来攻し各城をおとし入れた。同年四月には、白井氏が府中城に叛旗を翻した。

このとき大内軍が進攻した尾長村と中山村の間の峠は、現在も大内越峠(おおちごだお)と呼ばれている。

しかし来援の武田勢が戸坂で敗れ、大内氏が平定したが、武田はついに降伏しないまま、義興は病を得て山口へ帰った。

尼子氏は天文八年(一五三九)晴久が安芸侵略の議を決し、翌年大挙して毛利氏の本拠、吉田郡山城に来攻した。

このとき陶隆房(のち晴賢)ら率いる大内軍は、郡山城支援の戦端を開き、尼子の全軍は崩れて、晴久は出雲に逃げ帰った。

一方、桜尾城の友田興藤は、村上水軍の助けを得て厳島を占領するが大内氏に敗れ、桜尾城も大内氏の手に落ち、興藤は自刃した。

その子広就も五日市城に逃れ自殺した。

ついに天文十年五月銀山城が落城、すでに武田信実は尼子氏の敗北を聞いて出雲に逃れ遺臣がわずかに残っていたのみであった。

かくして鎌倉時代以来の、古い由緒を持った厳島神主家と武田氏は、ともに滅亡し、大内領国制の拡大をみた。

当時厳島神社の実務は棚守職で、佐伯房顕がこれに当たっていた。房顕は陶氏について大内氏の御師職として地位を高めた。

友田氏の滅亡後、同社の実権は房顕の手に帰し、その子孫野坂氏を称してその地位を世襲した。(現在の厳島宮司野坂家である)

大内氏は天文十一年大規模な出雲遠征を試みたが尼子氏に大敗して山口に引き上げ、その後、公家の風向を慕って学問風流に専念したため、政治から浮き上がった存在となり、家臣の離反を招き、ついに陶隆房が謀反を企図することとなり、政権の転覆を招いてしまった。

豪族たちが戦乱に明け暮れる中、郷村は成長つ丶あり農業、商業は拡大した。

中央の貴族、社寺の荘園は消滅し、地頭層が大名化、あるいは家臣化した。

それぞれの在地に五か村、牛田村、己斐村など新しい共同体としての村の発達がみられる。

内海の沿岸や島嶼を根城とする海賊衆は、航行船に対する海賊行為・警固行為や駄別料の徴取によって経済力をつけた。

大内氏以下諸大名は、海上権掌握の重要性から、海賊衆を、家臣として把握することに力を注ぎ、後に毛利氏が家臣化に成功した。

大内、武田、厳島神主家の朝鮮遣使や貿易の利も、海上交易の要地厳島の支配も、このように海上権と密接な関係にあった。

仏教諸派の弘通

当地方は、諸荘園が、高野山や東寺領であった関係から、中世に於いて真言宗の力が圧倒的に強く、厳島神社の別当寺大聖院や、可部荘の福王寺などが有力寺院であり、箱島には正観寺が建立されている。また、毛利氏が、吉田に建てた多聞院は、広島築城時三滝へ、福島氏時代に比治山に移された。

天台宗は少なく、これは当地域に荘園がなかったことによる。

その中で武田氏が銀山城の東麓に佛護寺を創建した事は特筆すべきことである。佛護寺は後に真宗に転宗する。

鎌倉時代に興った新宗派には浄土宗と諸派の分派がある。

時宗では後に真宗に転宗する圓龍寺・超専寺・徳應寺などがある。

日蓮門下では吉田に妙頂寺・本覺寺が、福田に妙法寺が開かれ広島城下に移った。また賀茂郡飯田に開かれた妙福寺は福島氏時代広島城下に移って本照寺と改称した。五か村では本逕寺が開かれている。

以上の諸宗に増して、中世仏教の特色は武士階級の間に広まった禅宗と、庶民に浸透した真宗である。

当地における禅寺の建立は新山(牛田村)の安国寺(現不動院)がある。

銀山城から近く、武田氏の保護を受けたが、武田氏の衰微とともに寺運は傾いた。

しかし銀山最後の城主信重の遺児、恵瓊が動乱を避けてこの寺に入り、後毛利氏の使僧、豊臣氏の信任を得て大名的存在となった。

臨済宗では吉田に興禅寺が営まれ、新開竹屋村に移された。

元就の菩提を弔う洞春寺が建立され城下広瀬村へ移転、その後、毛利氏の萩転封とともに移転し、幕末からは山口に在る。

広瀬北町には最近まで洞春寺ガ原と呼ばれる場所があった。

曹洞宗では沼田川流域に松光寺(福島氏のとき新川場へ移転)桜尾城北に洞雲寺、草津の慈光寺・海蔵寺、府中の長福寺、大手町の普門寺、新川場の海雲寺、尾長の瑞川寺等が創建されている。

真宗と佛護寺

鎌倉末期・南北朝時代に、沼隈郡山南に光照寺を中心とする門徒の勢力があった。その教線が安芸に伸び、高田郡船木村に照林坊が営まれ、真宗布教の一大拠点となった。

このころ芸南では、多くの寺院が真宗に転宗、安芸門徒を形成していった。

やがて明応五年(一四九六)佛護寺が天台宗から真宗に転宗した。武田氏と特に関係が深い佛護寺が転宗したことは、武田氏が真宗の民衆普及という事実をみて、民衆を戦力として利用することをもくろんだといえる。 やがて天文十年武田氏滅亡、ついで十年後には大内氏が滅び、毛利元就は天文二十一年(一五五二)佛護寺を保護して堂宇を再建、同二十三年には住職超順を帰住させ寺領を充実、本堂を再建させている。

石山戦争と安芸門徒

天正四年(一五七六)織田信長が、石山本願寺と戦端を開くに至って、毛利氏も本願寺支援に乗り出した。

織田信長は、将軍足利義昭を奉じて入京したが、天正元年不和となって、信長から追われた義昭は、地方有力大名と連絡を取って信長に当たろうとした。 このとき最も注目したのが毛利氏で、本願寺や紀州根来寺とも連絡がついていることを告げて、毛利氏の出兵を促した。

慎重であった毛利氏も、天正三年、義昭が毛利氏を頼って備後の国、鞆に逃れ来ると、ついに挙兵することとなった。

この戦いに、毛利家臣はもとより坊主衆は、本願寺に籠城、あるいは瀬戸内海東部海域に戦って功があった。

特に食糧の輸送に於いては、毛利氏の命令のもと内海警固衆の軍事活動に負うところが大きかった。

しかし織田方の包囲網は厳重で、兵糧米を大阪城内に入れることままならず、本願寺は大いに苦しんだ。

この危急を知らせるため、すでに大阪城内に在った毛利氏の重臣大多和就重と正善坊・光明坊(徳栄寺)が安芸に遣わされた。

安芸の門徒衆も多く本願寺の救援に赴いた。佛護寺四代唯順は、大阪に赴くが途中讃岐の宇多津で、正善坊蓮西とともに討死している。

広寂寺願西は兵糧を運び入れることに成功、超専寺二世超宗も門徒を率いて本願寺に籠城した。

川の内衆と東林坊

毛利元就の佛護寺保護も巧みな民衆勢力の利用を物語るものであるが、さらに天文十七年(一五四八)から二十一年頃牛田村風呂にあった東林坊(光圓寺)が明星院村大歳原への移転にも助力を与え、真宗への接近を図っている。

東林坊は仁保城の城番として、天文二十三年毛利氏が陶氏と断交するや、仁保島に在って海上警固に任じ、弘治元年(一五五五)の厳島合戦には六反帆の船に、上乗り水夫をつけて毛利氏に提供、みずからも五反帆の船に乗って奔走している。

東林坊は、単なる真宗僧侶というにとどまらず、安芸の海岸部に多くの末寺を持ち、それらの門徒を率いた武士的坊主と考えられ、元就のもとに盛んに軍事活動を行った。

このように当時門徒衆は、武士的坊主を大将とする強大な武力を持ち、毛利氏の封建大名の体制に、組み込まれていったといわれる。

佛護寺と十二坊

石山戦争で佛護寺唯順が戦死したとき、毛利氏はその忠義を賞し、跡目と寺領を安堵したが、以後毛利氏の庇護を受けるとともに、その強い統制下に入った。

正光寺・万行寺・専立寺・明教寺・徳栄寺は毛利氏の家臣が坊主になったもので、真宗が、毛利家臣に広まった結果であるが、一方で安芸門徒が、毛利氏から強く統制される原因となった。

毛利氏は光照寺・照林坊系の寺院を除き、安芸南部の興正寺系の大寺院である報専坊・超専寺・圓龍寺・光福寺・正善坊・光圓寺・徳應寺・善正寺・元成寺・蓮光寺・光禅寺・品窮寺などを佛護寺の触下に属さしめ、次第に統制を進め、広島開府のころ城下に集める事を意図したが関ヶ原で敗れ実現せず、福島氏の時代に入り慶長十四年(一六〇九)城西の要衝を兼ねて寺町に引き移した。このうち光禅寺・品窮寺は移ってこなかったし、近世に入り蓮光寺が去り、真行寺が移ってくるなど、多少の変化はあるが、これらの寺院は大きな勢力を保った。

当初十二ヶ寺であったので十二坊と称した。寺町のうち浄専寺はかつて銀山の峰にあり、上坊と称したが、寺町に移り十二坊と歩調を合わせた。また、正伝寺が加えられ十四ヶ寺になったが、十二坊と称した。

これらの寺院はいずれも、佛護寺よりはるかに創建が古く佛護寺との関係はなかったが、政治的支配のため、佛護寺触下に属さしめ、浅野氏も佛護寺を藩府の取り次ぎ寺として利用した為、後に確執を生むこととなる。

そのひとつに佛護寺十二坊の紛議がある。

十二坊の紛議

これは一言で言えば藩の処置に対する真宗諸寺院の反抗であるが、内実は佛護寺と十二坊の対立に起因するものであった。

元禄十四年(一七〇一)浅野藩は、これまで行われていた、各宗塔頭の、寺社奉行所宗門改帳連印を廃止することとなったが、禅宗国泰寺の各塔頭は了承した。

もともと塔頭とは禅宗大寺の境内にある小寺、いわゆるわき寺を指すものであるが十二坊のうち圓龍寺・報専坊・徳應寺・光圓寺・善正寺・元成寺・光禅寺・品窮寺は「十二坊は佛護寺の塔頭ではない」とその命に服さず、総代圓龍寺・善正寺・超専寺の三僧が寺社町奉行所へ願書を提出した。

奉行所は一応藩命どおりに行い、改めて願意を議するよう説諭したが承知しなかったので、期限に間に合わなくなった。

そのため奉行所は、佛護寺の親戚である明教寺に調停させたが、いれられなかった。

十二坊檀家代表にも頼んだが成功しなかった。ついに奉行所は処分を行い、代表三ヶ寺は大年寄り預かり、その他は閉門、遠慮を命じた。

これに関し京都興正寺は使僧を派遣し十二坊の宥免と連印の許可を要請したが、藩は拒否した。しかし興正寺の努力によって、藩主綱長は執政と協議し、元禄十五年十二坊の連印を許可して一件の落着を見た。

しかし表面上落着したかに見えた紛議が翌元禄十六年再燃した。

これはこの裁決に不満の佛護寺・明教寺の僧が寺院を放棄し、住職を辞すると奉行所に願い出たのである。

その理由はこの紛議を、佛護寺の策動とみなした末寺門徒が、佛護寺から離れたこと、明教寺も十二坊と反対の立場にあったことで、門徒の帰依を失ったため、寺を維持できなくなった。

このため奉行所は明星院・正清院に実情の調査斡旋を命じたところ、佛護寺は十二坊は心得違いと言い、十二坊は、佛護寺を疎遠する意図はないが境内僧ではないことを強く主張、ついには斡旋役の両寺に対して失礼の態度を示したので不調に終わった。 藩は佛護寺側に立って、十二坊の説得に乗り出したが、十二坊と淨専寺は、佛護寺境内僧とされることに強く反対し、佛護寺に書面をもって申し入れた。その結果藩府も強硬手段をとることやむなしと認め、圓龍寺・報専坊・徳應寺・光圓寺・善正寺・元成寺・光禅寺・品窮寺の主僧の領分追放を申し渡した。この八坊はもちろん領分を去ったが、処分を免れた正善坊・真行寺・超専寺・淨専寺も領外に去った。

かくして十二坊及び淨専寺は無住となった。その後住を佛護寺は選定し確定したがついに実行することはなかった。

京都興正寺門跡はこのたびも使僧を江戸に遣わし藩主に懇請し、藩主は受け入れ十二坊及び淨専寺は帰寺を許された。佛護寺は十二坊の帰寺よりも境内地が問題だと藩府に訴え出たが、藩府は取り上げなかった。以後表立った波乱はなかったがこれがもととなり佛護寺は門徒の支持を失い、いっそう衰微し、明治維新後、藩府の後ろ盾を失って、ついには京都本願寺に経営をゆだねることとなる。

参考文献 広島市役所刊 新修広島市史