原爆忌と原発問題

 昨日は原爆投下後67年経過した原爆忌でした。最近は広島市市民局からも8時15分に打鐘して下さいのお願い文が届きますが、言われなくともこの時間にはお勤めしているお寺が広島では100%でしょう。
 さて、今年も夕刻よりNPO団体のお手伝いをして来ました。原爆ドーム周辺はは昨年もたくさんの人だったのですが、今年はそれ以上だったように思います。多くの方が平和を願う日になればと思います。
 ただし、少し気になることがあります。昨今の風潮で原発問題をこの日に絡めてデモ行進したり、声高らかに主張する人が多くお越しになったことです。フェイスブックを閲覧すると、広島の人はこれに違和感を感じるようで、私もその一人です。原子力の危険性は分かるのですが、原爆でなく亡くなられた方を悼む一方で我が主張を吹聴するのは残念です。歩いてこられたのなら理解できますが、多くのエネルギーを使って移動して来られた方は、そもそも我が意を主張する前にエネルギーを使わねばならない自分というものを見つめて欲しいと思います。
 何かを伝え、時には我が身を運ぶ手段として、電気は使い勝手のいいエネルギーです。しかし、それを作るには発電装置が必要で、何らかの一次エネルギーを電気に変換する必要があります。その一候補として原子力は存在します。その規模に対する発電量は相当なもので、私は原子力発電の研究は続けていかなくてはいけないと思います。
 福島の問題は、東京電力が十分に保守制御できなかったことに尽きると思います。想定外のことが起こって、現場には精通した技術者がいなかったという事実です。地震発生後、2,3日後の朝日新聞には現場では必死の思いで自動車のバッテリーをつないでポンプを動かそうとしたができなかった。こんなことを報道してもいいのか、と思いました。電気屋さんが電気をつなぐことができなければ失格です。原子炉の冷却装置は距離を稼ぐために複雑な配管になっているはずですが、そこに亀裂が入り水を十分に循環させることができなかった、というのなら理解できます。稼働後40年近く経って、大事が起こらないのをいいことに、ほとんど外注任せだったことが伺えます。
 危ないから止めるのではなく、エネルギーを消費することを覚えた私たちは原始時代にはもう後戻りできない、という事実をみつめ、より安全な技術を探求するという努力を怠ってはいけないと思います。いずれ氷河期も訪れるでしょうから。

KOUENJI,Hiroshima,Japan