丹那での説教 その2

 一席目での話は念仏云々は科学的に信用できないから、宗教は信ずるに値しないと考えるのは、よくよく考察した上での話だろうか?いや、そうではなくそういうことにした方が自分が納得するから・・・よく理解できないものは信用しない、非科学的ということにすれば、なんとなく理由がつくような・・・そんな考えはよく科学を理解しない、表面的でしか物事を捕らえない人の非科学的な考えではないだろうか、というようなことを話しました。法とか規則というようなものが、自分の了解できる範囲内ですべて閉じているか、というとそうではないでしょう。だから、法律も時代によって変わってきている・・・どこの空間、時間でも普遍に漏れがない世間の法律というものはありえない。やはり、私たちはこの近視眼的な囚われから脱却しないと、どこまでいっても窮してしまう。
   願力無窮にましませば 罪業深重も重からず
   仏智無辺にましまぜば 散乱放逸も捨てられず
私たちはこの本願力にあっていることを理解しようとはせず、通り過ぎようとしている。でも、よくよく考えればそういった大きなものに抱かれている。科学的に捕らえようとすればするほど、背理法によっても否定できず、不可思議なものに抱かれているとういう念を深くせざるにを得ない。
 まず、自分をとりまく環境を客観的に深く洞察することに自分というものに気づいていく。そこに包まれているという安心感を抱くか、疎外感を抱くか、私たちは自分の目の前にあることを限られた時間で答えを出すのではなく、考察していくことが必要ではないだろうか。
 「数学的にありえない」という海外SF小説?にも仏教徒は量子力学的に物事をとらえる。不変なものに固執するのではなく、より科学的(先進的)に昔から物事を見ていたんだ、みたいな件が出てくる。
なるほどな、と思う。日本の中にいると気づかないこと。。。領域を拡張していけば気づくこともある。(つづく)

KOUENJI,Hiroshima,Japan