丹那での説教 その3

 ずいぶん時が経過してしまったので、いまさらという感じなのですが、続けます。
 私たちを取り巻くこの世界というのは、決して目に見えるもの、理解できるもので閉じているものではなく、時間、空間を超えたものを認めずにはいられない。
 そこに、いつの世であっても、どこにいようとも、誰であっても必ず救うという如来様の働きが届いている。例外なき救い、それこそ完備な救いである。その如来様の働きがあって、私たちは必ず救われるということに気づいたならば、その包み込まれているという安心感の上で私たちは冷静に物事をとらえることができる。余計なことを心配せずに自己を主張しすぎることもなく、少し客観化した立場で自己を見つめることができるし、社会へのアクションもとることができるのではないだろうか。
 人間というのは目標を定めてそれに対して努力するということは容易くできるが、必ず救われるという答えが既にあった時に私たちは怠惰にならずにどう報いていくか。そこが私たちが絶えず問うていかなければいけないことである。ありがたいのう、と思って過ごせるか、不平をたらたらいいつつも。
 腹の立つときや ぶつぶつ申せ
 ぶつもぶつぶつ なむあみだぶつ (浅原才一)
 ちっぽけな世界観の中で腹を立てる私が、時空を超えた大きな世界観の中で照らされていることに気づいたとき、安堵しありがたいと感ずる心が生まれてくる。切羽詰った閉塞感から開放され、少し先が見通せるといったら大げさかもしれませんが、ゆったりとした生き方に転じられていくのではないでしょうか。

KOUENJI,Hiroshima,Japan