もう三年半も前のことになりますが、突然、慶應義塾大学の先生からお手紙を頂きました。江戸時代後期の漢学者について調べており、人名辞典には墓が光円寺にあると記されおり、何か情報をお持ちではないでしょうか?という問合せでした。頂いた資料は人名辞典のコピーのみであり、どうしたものかと思っておりましたが、丁度、前住職が江戸時代の過去帳(ほとんどは原爆で消失しているので数は少ない)をスキャナで読み込んでいたこともあり、電子データ化されていました。
検索していくとほどなくして、当該人物の釋王香の記述を発見し、歿年も三十五歳と一致していました。普通は江戸時代の過去帳を見ても分かりません。名字もなく文字も読めなかったりするのが普通です。恐らく、うちに残っているのは原本の書き写しであり、私でも読める楷書で記してありました。
次に、情報開示の問題があります。個人情報保護法の範疇ではないもののその情報の取扱には注意を要します。その辺りは慶應の先生ですから、存じていらっしゃるらしく、慎重に取り扱います、と念を押されておりました。
それにこちらで所蔵する新修広島市史などを読み、大体の背景を推測ではありますが、書き加えて手紙を送りました。何軒か加藤香園につながる家はあると思ったのですが、加藤家は広島を出て東京で活躍されている方が多く、墓も現存しない今、全くの不明です。
それから三年後の昨年十一月、先生からまた突然電話がかかって来て、今広島にいるので、論文の原稿に目を通して頂きたい、とのお申し出がありました。私の名前を使っているのと、文言に差し障りはないかの確認でした。電話でOKを出したのですが、せっかくなので寺に来て頂き原稿を確認させて頂きました。
お話しをお聞きすると、他の文献とも照合し、間違いないという確証が得られたこと、その時代に広島という地方で文学に精通する人物がいたこと自体がが驚きであることなど、門外漢の私でもなるほど、と頷くようなことがたくさんありました。原稿を読んでいくと加藤香園の父が亡くなった日にちも記されており、その情報はお渡ししていなかったのに別の文献(日記)にあったことも私にとっては驚きでした。
ちょっと昔の手紙を整理していたら、こんなことがあったなぁ、と思い書き留めてみました。
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