私が情報通信を学んだ1980年代後半では、枕詞のように『高度情報化社会』という言葉が用いられていました。自分でも使っているかと思って卒論、修論を調べてみたのですが、意外にもいきなりニッチな書き出しになっていていました。それでもちょっとしたレポートでは使っていたような気がします。高度情報化社会において、メインフレームの終焉はいずれ訪れ、集中処理よりも分散処理へ、というような概論を暗号理論のレポートで書いたような気がします。

 なぜ、このような言葉を持ち出してきたかというと、その当時からすればハード的には今は十分高度情報化社会です。でも、思い描いていたものとは違い、随分変な社会になってしまったなと思います。今の情報には平気でフェイクもあり、ちょっと考えれば分かるだろうということも専門家じゃない人たちが議論する。知らなくてもいいこともたくさんあるのに。

 前の御法座で、𠮷崎先生が『スペイン風邪の死生観』という中外日報社の記事を取りあげられました。日本で人口276人の村において270人がスペイン風邪で亡くなる、そんな事実があったのかと率直に思いました。前御門主も近頃「未曾有」という言葉が頻繁に使われるが、それは如何なものかと問題を提起されたことがあります。私たちは過去から何も学んでいない。過去にも同じような出来事は生じていることに目を向けて、先人たちはその危機を如何に乗り越えていったのか、そこに学びを求める必要があるのではないかと思いますと。

 情報は溢れているのに自分は無知である、ということに気づく必要はあると思います。過去があり、現在、そして未来が訪れる。それは決して線形な道程ではなく非線形な急変動もあります。いろいろな事象を観察すればある道理に気づくこともあるかも知れません。今の出来事を具に記録していくということは重要なことです。ついつい後回しにしてしまいますが。

 改めて過去の市井の人びとについて学ぶということは重要だと、高度情報化社会の中で感じます。中国の兵馬俑博物館を訪れたとき、兵馬俑にも圧倒されましたが、何よりも感心したのは何気に展示されていた、(発掘された?)農機具に歯車が使用されていたことです。この国の治者がそれぞれの時代においていろいろなものを継承していれば、すごいことになっていただろうな、と思います。

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投稿者プロフィール

飯田 通
飯田 通住職
光圓寺第20世住職。
小学校、公民館での出前理科授業を行っています。
今は、Scratchを利用したプログラミング教室も担当しています。